ミャンマー特集/中古車輸出ビジネスで一際異彩を放つ日本・ミャンマー両国のブライトウイング社 - …

2024年5月5日 [日曜日] 大安 |  西暦元号早見表 西暦元号早見表  |  サイトマップ サイトマップ

ミャンマー特集/中古車輸出ビジネスで一際異彩を放つ日本・ミャンマー両国のブライトウイング社

企業・団体 2012年10月25日
取材に応える両社長

取材に応える両社長

複数画像有

拡大拡大する

 最近話題のミャンマー中古車輸出ビジネスの中でも、ひときわ異彩を放ち注目を集めている企業がある。その企業とは東京・板橋に本社がある有限会社ブライトウイング(飯島百合子代表)だ。

同社の設立は2005年、同時期にヤンゴン市内にも現地法人ミャンマーブライトウイングCO.,Ltd(テイン トゥン アウン代表)を設立し、両社で日本車の買い付け、輸出からミャンマーでの輸入、納車まで終始一貫したサービスを提供している。実は両社の代表は夫婦であり、現在は日本とミャンマーにそれぞれ別々に居を構え、中古車輸出ビジネスを展開している。2011年度の年間輸出台数は800台、年商2億円(2012年6月決算)。

今回、期末処理でアウン代表が来日したのを機に、ミャンマー中古車ビジネスに関し、これまでの経緯や実態、また今後の展開についてお二人から話を聞いた。


【地下鉄での偶然の出会いが】
 ブライトウイング社の飯島代表は、現在日本国籍を有しているが両親はミャンマー人で、ヤンゴン生まれの生粋のミャンマー人である。両親とも銀行員で外国為替の仕事をしていた関係から、子供の頃は自宅に外国のお客様がよく訪ねてきて、自然と外国語や外国の文化に触れあう機会が多かったという。その中でも日本語や日本の文化に憧れをもち、“いつかは日本で暮らしたい”と願うようになる。その後、名門のヤンゴン大学理学部を卒業し、28歳の時に念願かなって日本への留学を果たすことができた。

 飲食店などのアルバイトをしながら専門学校を卒業し、そのまま日本のIT関連の企業に就職。2002年に日本国籍を取得するまでになった。日本名は、大変お世話になった方の姓「飯島」と、以前からユリの花の美しさと漢字にした時の「百合」という言葉が好きだったことから「飯島百合子」に決めた。

 一方、アウン代表は1971年にヤンゴン市に生まれ、サラリーマンの家庭に育ち、飯島代表と同じヤンゴン大学の生物工学部を卒業し、貿易会社に就職した。会社を3年で退職した後、日本に来日しアルバイトをしながらお金を貯め、お金が貯まるとミャンマーに戻り、中古車を仕入れ転売、転売するとまた日本にきてお金を貯めるといった生活を繰り返していた。

 二人とも学部や学年は違うが同じ大学の出身で、2年ほど同じキャンパスに通っていた時期があり、お互い顔は知っていたが、親しく話すような間柄ではなかった。そんな二人が日本でアルバイトをしている時期に、勤務先に向かう地下鉄の中で偶然に再会したのである。

 その時のことを尋ねると、二人とも「まさかこの相手と結婚するとは思わなかった。ただ数少ない同郷の人間にあえた嬉しさと、大学の同窓生に会えた懐かしさがあった」と話す。その時は連絡先を交換し別れたが、当時は二人とも異国の地で生活する上でありがちな文化や慣習の違いによる戸惑いや悩みを多く抱えていたこともあり、定期的に電話をし、また休日には直接会って相談したり、また励まし合うようになった。そうしていくうちに二人の距離は縮まり、遂に2002年、中野サンプラザにおいて、多くの友人・知人に祝福され華燭の点を迎えるに至った。


【会社の設立とこれまでの沿革】
 結婚を機に新居を日本に構えたこともあって、アウン代表はそれまでの日本とミャンマーを定期的に往復する生活を変え、日本のIT関連(飯島社長は別の会社)の企業に就職し、定住することにした。実は以前から二人は、“いつかは起業する”という明確な目標を共有していた。従って、結婚後しばらくは二人ともがむしゃらに働き、開業資金を貯め、そしてある程度目処がたった2005年に念願の起業を果たした。

 創業は中古車輸出ビジネスではなく、それまで勤務していたIT企業での経験を活かしたパソコン関連事業からのスタートとなった。具体的には、日本に留学しているミャンマー人学生を対象にしたパソコン教室の運営とWebサイトのショップから中古パソコンを購入し、これをリニューアルして再販、また修理するといったもの。この事業は比較的早く軌道に乗り、翌年には高田馬場に店舗を構えるまでになっている。

 そして創業から間もなく、新たな業務が加わった。それが中古車輸出に関するビジネスの依頼だった。
 飯島代表の知人に長年日本からタイやインドネシアを経由してミャンマーに中古車を輸出している会社の社長がいた。2007年10月、ミャンマーの首相に現大統領であるテイン・セイン氏が就任し、政治改革が開始され民主化の動きが出てきて、これに連動するかのように日本からの中古車輸出も活発になり始め、知人社長の会社も忙しさを増していった。飯島代表は学生時代から日本語が堪能であったため、よく頼まれてオークションへの問い合わせや陸送手配などの手伝っていたのだが、ここにきて改めてこの社長から飯島代表に業務支援の要請があった。飯島代表は元々この事業に対し興味を持っていたので設立時の定款に「中古車輸出」と記載しており、アウン代表と協議の上この要請を受託、パソコン関連事業に加えて、この中古車輸出支援が新たな業務として始まった。

 この業務を受託して以降、民主化の動きは活発化し、特に新政権下では「自動車普及率の向上」が主要政策の一つとなっていたことから、業務量は日毎に増加していった。飯島代表はこの業務を通じ、祖国の民主化を肌で実感するとともに、今後、日本からの中古車輸出は飛躍的に拡大するだろうという確信を掴む。しかし、どれだけ拡大しても業務支援はあくまでもサポートの範囲であり、やり甲斐や達成感というものが、今一つ感じられないでいた。

 また、このビジネスの可能性を考えると、どうしても主体的にやってみたいという思いが強くなっていった。考えた末、思い切って「直接やらせてほしい」と頼んでみた。当時依頼主の社長の会社では、増え続ける顧客を処理しきれなくなっていたこともあり、あくまでも既存顧客への業務支援は引き続き行うことを条件に快く了解してくれた。

 
【本格的な中古車輸出ビジネスのスタート】
 取引先の社長から快諾を頂いたことで、ブライトウイング社としての本格的な中古車輸出ビジネスがスタートする。

 当初顧客は、業務支援で知り合った顧客の紹介で確保できる見込みがあり、仕入先のAA会場にも同社長の紹介で難なく入会、船の手配を含め輸出業務は業務支援でやっていることなので何の問題もなかったため、順調にいくかに見えた。しかし唯一問題だったのが、現車の引き渡しと代金回収である。2011年以降は現在のように直接ヤンゴンまで船で運ぶことができるようになるが、当時はタイやインドネシア、マレーシアを経由しなければならなかったからだ。

 いくつかの選択肢の中からコストや納期を考え、同社が選択したのはタイのメソッドルートだった。現車を日本からタイのバンコク港まで船で運び、その後、陸路でこのメソッドまで輸送し、国境の川岸でミャンマー側のバイヤー(当時は軍関係者が殆ど)に現金と引き換えるというやり方だ。一見、危ない取引きのように思えるが、当時はこれがスタンダードだった。しかしここは世界的にも有名な紛争地域でミャンマーから逃げ込んだ難民が20万人避難している。日本のジャーナリストが現地で逮捕されたことも記憶に新しい。女性の飯島代表がやるにはあまりにも危険すぎる。そこで、アウン代表がこの業務を担当することになった。

 当時、アウン代表が行っていたパソコン関連事業の方も順調に推移し、黒字化されて同社にとっては主要事業として確立しつつあったが、“事業としての将来性とミャンマーの今後の経済発展に寄与できるのであれば”との思いから2009年8月、高田馬場の店舗を閉め、パソコン関連事業を休眠し、輸出ビジネス一本に専念する結論を出したのである。当時を振り返って「結果的に見ると、正しい判断だったと言えるが、当時は何の裏付けもない中、安定した経営を敢えて投げ打って賭けに出たのは、かなり無謀な判断だったと思う」と口を揃える。意外なことに躊躇したのはアウン代表の方で、どちらかと言えば、思い切りの良い飯島代表の方が押し切ったとのことだった。


【現在の営業スタイルと両社の役割】
 タイ・メソッドルートでの日本から中古車輸出がスタートし、半年もするとコンスタントに月で10台はこなすようになり、直接ヤンゴンに入るようになると取扱台数は倍増、2011年7月には月間20台にまで拡大。ミャンマー政府が年式の古い車の代替促進策を打ち出した2011年9月にはさらに倍増し月間40台ベースになって一気に飛躍した。正に時流を的確に掴みとった形となった。

 現在のブライトウイング社のビジネススキームとしては、まず営業を担当するのは現地ヤンゴンのブライトウイング社で、新聞や雑誌などに広告を掲載しユーザーからの問い合わせを受け、購入希望者には直接事務所まで来てもらい、写真のような商談ブースで商談を行う。商談の進め方は、ユーザーから購入を希望する車輛の車種、グレード、年式、色等々の条件を聞き出し、日本のAA出品車の中から希望にマッチする車輛を2台にまで絞り込んでいく。そして乗り出しまでの価格と納期を確認した上で出品の早い方を第一希望とし、遅い方を第二希望とする。この情報は速やかに日本側のブライトウイング社に伝えられ、日本側のスタッフは現車を下見してセリに臨む。落札されると輸出抹消から船積みまで輸出処理全般を日本のブライトウイング社が輸出者(シッパー)として行い、現車をヤンゴンへと送る。ヤンゴンでは現地のブライトウイング社が輸入者(コンサイニー)となって、通関業務はじめ輸入処理を行い、最終的にユーザー名義に登録して納車する。

 このスキームのウィークポイントは納期で、納車までにどれだけ最短でも2ヶ月は要すること。その間にユーザーの気が変わってしまうことがあり、特に最近は一連の規制緩和によって、ヤンゴン市内に中古車のショールームが増えたことで、目移りしてしまい、何かと難癖をいってはキャンセルしたがるユーザーが多くなったという。例えば、事前にしっかりと説明はしているものの、台風などの影響で船の到着が遅れることがあるが、それを理由に頑なにキャンセルしたがるのである。そこで同社もこれに対抗すべく新たにショールームの許可を取得し、すぐに登録納車が可能な展示車を置いて、新たな販売形態を展開したが、これも順調に推移し、結果的には販売台数を更に拡大することとなった。


【ミャンマー独自の輸入規制と商習慣によって生じる問題】
 これまでにドラスティックな決断やウィークポイントを逆転の発想で見事に淡々と時流を掴み取ったかに見える同社であるが、ミャンマー独自の輸入規制や商習慣など、難しい問題を抱えているのも現実だ。特にこうした問題は、仕入時のAA取り引きの際に生じている。

 具体例を紹介すると、ミャンマーへの輸出車輛の中でも人気のあるトヨタのハリアーの場合、現地での相場は2000年式が日本円で40万円前後(輸入許可書取得費用は除く)だが、1年落ちの1999年式になると何と80万円から120万円に跳ね上がる逆転現象が生じている。

 何故このような現象が起きるかと言えば、輸入時の関税(CIF価格に対して課税)が、ミャンマーの場合、政府がCIF価格を設定していて、1999年式のハリアーは例外なく一律US$5000-、それに対し年式の高い2000年式の方が僅か5分の1のUS$800-といった歪みによるものである。世界的に見てもレアケースと思われるが、この事情を知ってか知らずか定かではないが、日本国内で出品店が、現車の年式を2000年式でも出品票には敢えて1999年式と記載し、ミャンマーの輸出業者が成約してしまうケースがある。この年式の違いはミャンマーの輸出業者にとっては大きな痛手となるので、当然ながらAAにクレームを入れるが、AA側は出品票記載の年式が現車よりも高く記載した場合はクレーム対象とするものの、現車よりも年式が低い場合はクレーム対象にしてもらえないのである。そのまま輸入してしまうと大きな損失が生じてしまうので、やむなくペナルティを払って一方的なキャンセルをすることになる。

 また出品票にETC付きやナビ付きの記載があって、それをあてにして落札したところ、実際にETCが現車には付いてなかったり、ナビが不良の場合がある。これをAAにクレームを申し立てても、AA側はこちらがミャンマーへ輸出していることを知っているので、「ETCやナビが付いていてもミャンマーでは使えないでしょ」と相手にしてもらえない。
 
 確かに、ミャンマーでETCやナビは使用できないのは事実だ。しかし、ETCやナビが車輛の付加価値を高めているのが実態だ。ミャンマーのユーザーにとって、ETCは日本から輸入されたことを示すステータスであり、ナビ自身は使えなくとも、ナビ画面でACやCDの調整をすることがステータスなのである。従って、実際にETCが付いていなかったりナビが不良であるとユーザーからは値引きを要請されてしまうのである

 あくまでも代表的なケースを2件あげたが、実際にはかなりのケースがある。本来であれば、このような輸入規制や商習慣の違いによって生じるクレームをAA側に理解してもらい受けてもらいたいところだが、いちいちレアケースに応じていられないというのも理解はできる。やはり自助努力で解決していかなければならないと実感している。具体的な防衛策としては、多くの車輛を落札するAA会場には下見要員を派遣して事前に現車をしっかり確認するようにしていると語ってくれた。


【ミャンマー中古車市場の今後の展望とブライトウイング社の夢】
 最後にミャンマー中古車市場の今後の展望とブライトウイング社の夢について話を聞いた。
 まずミャンマーの中古車市場については、「現政権下の目下の目的は自動車の普及であり、そのためにさらに規制を緩和してくる可能性はある。しかし逆に締めつけてくる可能性もあり、今後3年間位は不安定な状況が続くと思う」「しかし、今後ミャンマーで車が普及するとすれば日本の中古車以外は考えられず、将来的には安定的に売れていくことは間違いない」と語る。

 また今後の課題としては、“部品供給を含めたアフターサービスの確立”“割賦販売を実現する銀行、信販会社の参入”“安心なクルマ社会を実現する保険会社の参入”等々をあげ、さらに「劣悪な電力事情が改善され、インターネット環境を含め通信インフラが充実してくれば、進捗の度合いは一気に加速するはず」としている。
 
 ブライトウイング社の夢については、「私は日本でのビジネスを長年経験した実感として、日本人の仕事に対する考え方、取り組み方は世界一素晴らしいと思う。この経験を活かして、中古車ビジネス以外にも数多くの事業を導入し、雇用の場を創出して、結果的にミャンマーの子供たちの多くが平等に教育を受けられる環境を創りたい。それが私の夢だ」(飯島代表)。

 最近日本でもミャンマーのことが何かと話題になり、ミャンマーに進出したいという企業の方から多くの問い合わせがあるという。中には骨董無形な話もあるそうだが、一つ一つ誠実に話を聞いているという。なぜなら、案件が多ければ多いほどビジネスの可能性が拡がると考えているからだ。「新たなビジネスができればミャンマーに雇用の場ができ、子供たちが教育を受けられ、将来的にミャンマーの国が大きく発展する可能性が少しでもあれば、ブライトウイング社は全力でサポートしていく」(飯島代表)としている。

 また現地法人代表のアウン氏は、「将来的に日本の技術とノウハウを結集した飲料や食料品のプラントをミャンマーに導入することが私の夢だ」とし、「日本式の厳しい生産工程の中で製造された良品質の商品(ミャンマー製)を日本に輸出するのではなく、ミャンマー国内で流通させ、ミャンマーの人達にも普通の生活の中で享受させたいから」なのだという。「実際にある中国人起業家がミャンマーにポテトチップのプラントを導入して大成功を収めている。ミャンマーではこれまでポテトチップとなる原材料のポテトはいくらでも生産されていたが、ポテトチップに加工する技術がなかったため、中国やタイから製品を輸入していた。しかしこのプラントが導入されたお陰で価格の安いポテトチップが手に入るようになり、雇用の場も創出されている」と具体的な事例をあげ、ミャンマーの経済的発展に大きく貢献できる可能性があると話してくれた。

 同社ではすでに、いくつか導入に向けたリサーチを行っているとの事で、“コーディネートする仕事も、今後ブライトウイング社の主要事業として育ててきたい”と考えているそうだ。

 わずか7年で飛躍的な成長を遂げたブライトウイング社。常に祖国の発展を考え、誠実に事業に取り組み、新しい目的に向かって前進している。無限の可能性を秘めたアジア最後のフロンティアであるミャンマー市場で、今後どれだけ成長していくのか大いに楽しみである。


【会社概要】
会社名:有限会社ブライト ウイング
本店所在地:〒137-0004 東京都板橋区板橋3-5-5-804号 TEL03-6915-5997
設立:2005年6月
代表取締役:飯島 百合子
社員数:5人
事業内容:貿易業(日本から中古車、コスメをミャンマーに輸出)
年商:2億円(2012年6月決算実績)
累積輸出台数:約800台

会社名:Myanma Bright Wing Co.,Ltd
代表者:本店所在地:No152,First Floor Bo Aung Road, Kyauktadar Townshi Yangon Myanmar
TEL:+95-1-385949
設立:2005年6月
代表取締役:テイン トゥン アウン
社員数:14人
事業内容:貿易業(日本から中古車、コスメをミャンマーに輸入)
     旅行代理業(日本からミャンマーへの業務渡航受け入れ)
     中古車小売業(ショールームのライセンス取得)
事業計画:コスメ及び飲料のミャンマーへのプラント導入計画

※ミャンマーに事業進出を検討されている方で、お問い合わせを希望されている場合、日本側のブライトウイング社まで日本語でお気軽にお尋ね下さいとのことです。

[PR]トレンドウォッチ

オークション一覧へ


整備一覧へ


板金一覧へ


店舗情報一覧へ


ひと一覧へ


コラム一覧へ


相場統計一覧へ


新製品一覧へ


新車ランキング一覧へ


中古車ランキング一覧へ


FC加盟募集 アップル

荒井商事

ASNET

QuickXQuick

週間オークション情報

オークション会場情報へ

成功事例集

バナー広告募集中

グーネット自動車流通へのご意見・ご要望

企業・団体関連の過去記事を検索する

日  ~  

【対象評価点】

4、4.5点

【抽出価格条件】

直近価格が500千円以上

【抽出台数条件】

毎月50台以上の流通が過去6ヶ月連続していること